コラム
2023.11.22

[2] 「生まれる」という奇跡

小さい頃の私は「子どもは3人ほしい!」と、
望めば当たり前に子どもはできるものだと思ってた。

結婚後、28歳で流産をした。(「 生まれなかった命 」)

身体も心も休ませるために半年間妊活をお休みして、
考えないようにするかのように、仕事に打ち込んだ。

その後、仕事を続けながら妊活を再開するが、なかなか子どもができず、
不妊治療で(多い時は)病院に週3〜4回、通う生活が始まった。

クリニックでは、
仕事とクリニックとの調整をするのが大変だったり。

内診台で「なんでこんなことしてるんだろう」と虚しい気持ちになったり、

週に何本も採血をしたり注射を打つため、注射の跡がたくさんあって気が滅入ったり。
筋肉注射が激痛で泣きながら打ってもらったり。

以前から、仕事や妊活のプレッシャーやストレスが原因と思われる
身体の不調(謎の高熱やリンパの腫れ、身体中のこり、頭痛など)が続いていたこともあり、

「またダメだった」
「私の身体のせいかな」
「こんな身体でごめん…」

と、自分がダメなような気がしてきてしまって、苦しむ日々が続いた。

もちろん、自分の価値って不動で、いつでも変わらずめちゃくちゃ大切なのだけど。

身体のために、できることは全部やった。

身体に悪いものは、できるかぎり全て排除し、
食べ物も身につけるものもケアも、いいと言われるものは進んで取り入れた。
薬膳の勉強をしたり、温活も頑張った。

病院に行って血液検査をして何が栄養的に足りないかを調べて、
プロテインやビタミンや鉄や葉酸を飲んだり、漢方薬を処方してもらったり。

いろんなものを試した。夫も一緒にサプリを飲んでくれた。

でも、必死になってやっていくほどに、

街で赤ちゃんを見たり、テレビで芸能人の妊娠・出産報告を見ると、
「なんで、私たちのところにはきてくれないんだろう…」と虚しくなった。

「人の出産を喜べないなんて、私はダメな人間だ」と苦しくなった。

(別に、人の幸せ喜べない時があってもいいじゃん)って今なら、思うのだけど。

それから半年経っても、授かることはなく、

「……また、ダメだった…」と毎月、落ち込む深さが深くなる私。

そのたびに、夫が、

「大丈夫だよ」「樹里のせいじゃないよ」
「のんびり、10年くらいの単位で待とう」
「もし子供できなかったら2人で楽しく生活しよう!」

と励ましてくれた。

そんな中、生放送の仕事中に赤ちゃんが出るコーナーの映像を見て、
苦しくなって泣きそうになり、その場では我慢できたものの、
仕事をしながらの妊活に限界を感じた瞬間だった。

そのタイミングで、リポーターとして1から育ててもらった産みの親のような番組が最終回を迎え、
今まで、200%の本気をぶつけて頑張ってきた仕事に対して、

(…やり切った……。)

と燃え尽き感があったのもきっかけになり、活動休止を決意。

(これからは動物を飼ったり、野菜を育てたり、
体質改善をしながらのんびり生活をしていく10年にしよう)と決めた。

…つもりだったのだが、
あんなに悩んで嘘のようだけど、番組に活動休止の報告をしてから1ヶ月後。

まだ休止まで仕事が残っている状態で、子どもを授かっていることがわかった。

子どもを迎える決意をしたからか、
ここ数年のプレッシャーから解放されホッとしたからか、

こんなことってあるんだ、と驚いた。

そして、無事に全ての仕事をやり切って、妊娠生活を迎えることができた。

無事に生まれるか、ギリギリまで不安だったけど、

2019年9月14日に番組が終了してからちょうど一年後の
2020年9月14日、無事に息子が誕生。

このことがわかった時は、鳥肌が立った。

なかなか、子どもができなかった期間。

そのことはすごく悩んだし、苦しんだし、辛かったけど、
夫と支え合って苦しい時を乗り越えてこられたことは今も誇りに思う。

『二人で乗り越えた妊活だった』

よく考えてみれば、主に支えてもらったのは私だけど、

そういう気持ちになれているってことは、夫の力量だと思う。

子どもが「生まれた」奇跡に感謝。

私が「生まれた」奇跡に感謝。

私の大切な人たちが「生まれた」奇跡に感謝。

子どもが生まれるのは、当たり前じゃない。

「妊活で苦しんでいる人がいる」ということを知ってもらえるだけでも、
人にわかってもらえない「孤独感」が和らぐし、本当にありがたいことだと思う。

だから読んでくれたあなたにも感謝です。

そして、この後始まる
育児はもっと大変だったのだけど、それはまたいつか。

ライター
阿部 樹里
阿部 樹里

講演家・エッセイスト。一児の母。

1989年9月23日、島根県出雲市生まれ。共働きの両親の元で三姉妹の次女として育つ。
中学1年の時に不登校になりながらも、モデル活動をスタート。
24歳からBSS山陰放送の番組にレギュラー出演。テレビやラジオなどのCM・広告など13本に起用。

現在、育児や不登校時代の体験を講演やコラムにて発信している。

「共感して涙がでました」
「不登校児の父として勉強になりました」
など親子それぞれの立場から評価を得ている。

CATEGORY

育児

家事

働き方